銀座という地名を初めて聞いたのは、昭和二十年の初めだった。山梨県大月という小さな町に生まれ育った私は、その四方を山に囲まれた一画を全宇宙として暮らしてきた。
「昔恋しい銀座の柳…」冒頭の一節に銀座という地名の入る東京行進曲(中山晋平作曲、佐藤千夜子唄)であったが、ただそれだけで、銀座というところがどんなところで、どこにあるのかさえ皆目わからなかった。
江戸時代、ここに貨幣鋳造所があり、それが地名となったいわれはずっとのちに知ったことだ。その後、東京に出、写真修業時代に当時、富士写真フイルム本社が銀座にあった関係で使いにやらされたことから、少しずつ銀座の地理も覚えた。
それからさらに数年、写真家の卵として社会に出、しだいにここが日本随一の社交場であり、文化人のつどう場所と知った。だが、いくら憧れても当時の私などはおよびもつかぬ高嶺の花であった。ひとなみに酒も呑むようになっていたが、当然のこと懐中は火の車、安酒を呷るのがせいぜいで、一流レストランや料亭、噂に聞く高級バーやクラブには足踏みできるものではなかった。浮き名、ロマンスなどには皆目縁のない毎日であったが、変な武勇伝だけが当時の銀座での思い出にある。そのころも西銀座の路地裏や、新橋、日比谷のあちこちに私などでもオダを上げられる小料理屋やスタンドバー、居酒屋があった。
そうしたところで一杯ひっかけ、二杯三杯が止めどない酒となる。終電に乗り遅れることなどしょっ中のこと、そうなればタクシーを拾うしかない。
ところがその当時はタクシーの乗車拒否大流行時代、こっちはすっかりでき上がっているから怖いものなし、ドライバーを引きずり出し、尾張町交番(いまの四丁目)に拉致、勤務の若いお巡りさんに「なぜ取り締まらない」とねじ込むのは再々のことだった。お巡りさんとしては、さして自分と年齢もちがわない若僧のクレームなど聞きたくない。“この若僧め、銀座で呑むなんて生意気な”という気持ちから逆にドライバーの肩を持つ。そうなればお定まりの大口論、屁理屈ならべてお巡りさんとドライバーをぬじ伏せ、意気揚々と帰途につくのが定例だった。
その頃から見ると銀座は大きく変わったかに見える。見方によってはエリートの集まる一等地としての気品も雰囲気も失われたかに思えることがある。何しろメインストリートにマツモトキヨシ、パチンコホール、ラーメン屋が幅をきかす。などいうことはその一例である。高級なバーや社交場としてのクラブも大半は姿を消し、スナック的な安酒場となってカラオケ大流行である。片言英語混じりの流行歌を恥ずかしげもなくがなり立てる。静かに酒酌み交わし、洒落た会話を愉しむ銀座の夜はどこに行ったのだろうと思うのである。
銀座の路地裏やその周辺に出没して、せめてもの銀座を味わっていた私がこんなことをいうのはおかしいが、長年月の間にいつか自分なりに銀座になじんできたのかも知れない。だが、高級レストランやクラブでモゾモゾと尻落ち着かないのは今もだから、自分がエリートで銀座人種にふさわしいとは決して考えない。
しかし、自分なりに古きよき銀座、その伝統を守りたいと思う。それに銀座にはいまもそれを連綿と受け継いでいる店があり、人たちがいるのだ。銀座の本質は何ら変っていないのである。