信州の田舎からデザイナーを目指して上京し、大学を出て、昭和43年に銀座資生堂宣伝制作室に入社した。
東京に住んではいたものの、それまで銀座は全く無縁な地であった。デザイン学生あこがれの資生堂宣伝部に合格したが、入社直前まで勤務地が銀座とは自覚せず、学生はそんなものだった。同時にサントリー宣伝部入社試験も受け、最後の社長面接となり大阪本社に行った(当時社長は佐治敬三氏で、私は落とされマシタ。ちなみに合格者なし)。入社後は大阪勤務になると言われており、社会人を始める勤務地の土地柄は影響するから、もしこちらに入っていれば私も多少ちがう人間になったかも知れない。
ともかくも私は銀座で社会人としてスタートした。田舎育ちの身にはすべてまぶしく、大人に見えたが、こうなった以上臆することは何もない、の気構えだった。宣伝部のデザイナーはみなおしゃれで、夕方になると脱いでいたジャケットに袖を通し、デザイン制作室に置いてある共用の靴磨きセットで軽くササッと靴の埃をはらい、颯爽と出かけた。もちろん酒を飲みに。
「太田君、いくぞ」と声をかけられれば一も二もない。その年のデザイナー入社は私一人で、いやでも声がかかった。宣伝部の台所と言われた金春小路の居酒屋「樽平」や、交詢社にあったドイツビヤホール「ピルゼン」は、「先に行って席をとっておけ」とよく言われた。金のない学生時代は外で酒を飲むなどできなかったのが、毎日のように先輩に連れられ、もちろん払ってもらい、社会人てなんていいんだろうと思った。それも一軒ではなくハシゴに次ぐハシゴ。終電が出れば平気でタクシーだ。どんな話でも最後まで聞いていたい、いや、いつまでも飲んでいたい私の給料はほとんどタクシー代、酒代に消えた。
その後、あちこちで酒を飲むようになると、銀座はやはり違うことがしだいにわかってきた。それは、客も、店も、背筋をピンと伸ばしながら気負ったところはない、自然体の育ちの良さだ。どことなく身なり良く、飲むときの話題も愚痴や口論はなく、ワハハワハハと朗らかで、店が混んでくるとさっと席を立ち、何か主人に軽口をたたいて、きれいに勘定して出てゆく。出てゆけるのはいくらでも次の店を知っているからだ。逆に銀座で飲めると張りきって出てきたお上りさんはすぐわかり、違いを知った。
上司に連れられクラブのような所にお供すると、銀座が身についた振る舞いがいっそう求められる。すべからくスマートに、野暮はご法度。店もそれを見ているのがわかった。
バブル景気も消え、今やフリーの身では高級店など入る術もないが、銀座をわが町と思い、酒を飲める習慣が身についたのは、会社のおかげであった。

太田和彦(おおたかずひこ)
1946年、北京生まれ。資生堂宣伝部デザイナーを経て独立。アートディレクターとして活躍する一方で、日本各地の酒場歩きをライフワークとし、「完本・居酒屋大全」をはじめ多くの著作がある。『愉楽の銀座酒場』(文藝春秋)はバーを中心に銀座の酒場73軒にスポットをあてた力作。