銀座四丁目の交差点のことを、私はいまだに尾張町の十字路あるいは交差点と呼んでいる。多少の気障な気持ちがないではないが、子供の頃から言い慣れた尾張町の語呂のほうがしっくりと来て、「御張町の角でさぁ、車がぶつかってんだよ」などと仲間内で話しては、おれたちゃ江戸っ子なんだという狭量の世界に遊んで胸を膨らませている。
私の小学校時代は戦争(私の世代にとって戦争といえば大東亜戦争すなわち第二次世界大戦しか考えられず、ベトナムや湾岸のそれはニュースとしてのみ受け取っている)の真っ最中から戦後の焼け跡時代にかけて過ごしているので、銀座といえば米軍に占領されていた頃の風景が一番印象ぶかい。
終業の鐘が鳴ると校門から家にランドセルをほうり投げて、銀座に遊びにいった。道筋としては、私の小学校は赤坂にあったので、虎の門から新橋を抜けていくか、日比谷公園をつっきって数寄屋橋をわたって行くかのふたコースがあった。虎の門コースは田村町周辺のワルの縄張りをかすめるのが怖くて、たいていは日比谷コースを取ったが、夏は日比谷公園のプールにひっかかって銀座までたどり着かないこともよくあった。
和光と松屋は米軍専用のPXになっていたものだから、松坂屋の屋上が私たちの遊び場で、金網に顔をくっ付けては下に広がる屋根を眺めたものである。焼け野原の東京は荒涼としていた。その中で銀座だけが沸いていた。歩道にはえんえんと露店がならび、ありとあらゆる物が並んでいる。復員兵、GI、着飾ったお上りさん、カンカン娘、傷痍軍人の吹くハーモニカ。その人混みの中を、私たち子供たちは縫うように歩いて銀座のエネルギーを吸収していた。
高校一年の頃、同級生が誕生日のお祝いにテネシーに連れて行ってくれたのが、私の銀座遊興の第一歩である。ステージではクレージー・キャッツがバンドをやってはコントでまぜっかえし、シンガーは植木等がマイクを握る。いい声でシャンソンの枯葉を歌い、「ひらひらと散る枯れっぱー」とやってアルミの洗面器でひっぱたかれる。テネシーあたりは、山の手女子校の良家のねいちゃんたちが学校に内緒でやってきて、慶応ボーイと島を張っているものだから、私たち太陽族のガキは土橋に映えるショー・ボートへいって、大人のおねいちゃんたちと遊んでいた(あそこは外堀でボートが浮かんでいた)。

忘れられないのは日劇地下のアルビオンで、タバコをくわえるとダンサーが胸の開いたドレスの乳房の谷間からマッチをだして擦ってくれた。胸の谷間が見たくて一箱三十円のパールを、すぐ空にしたものだ。日劇ミュージック・ホールは最高だった。なにしろ舞台が華やかで、ストリップ・ガールたちがこの世のものとは思えない美人揃い。トニー谷が出てきて「レディス&ジェントルマン&おとっつあんおっかさん」とやると、観客が総立ちになった。 社会に出て骨董屋の修行をするようになってから、私にとって銀座は遠いものとなっていった。たまに仕事で並木通りを通ると、銀座はよそよそしくて、私にとって他人行儀な町になっていた。仕事一筋で脇目もふらずに歩いていくものだから、銀座のほうで敬遠したのかもしれない。

銀座がふたたび私のテリトリーになって戻ってきたのは、ここ十年ぐらいのことだろうか。骨董商の仕事も一段落して、タレント稼業として人生第二のスタートをきった頃からで、まず老舗バーのカウンターへ行ってマティニーをきこしめし再開のご挨拶としてみた。現役の骨董商時代、仕事絡みでバブル紳士たちと歩きまわったクラブは健在だろうか。一万円札を丸めて胸元に投げつけられていた子鹿のような彼女たちはどうしたかなぁ。喧嘩した寿司屋のおやじ、百合根のスープが自慢で、店をひとりで切り回していた洋食屋のばあさんはどうしたろ。
ここのところ歌舞伎にはまりだしてから、東側が詳しくなってきた。あの頃は西側だけでゴロまいていたものだから、三原橋から向こうは私にとっては治外法権の場所だった。それが木挽町の小屋通いがはじまったとたんに、あの界隈ぐんと島がふえている。
銀座はやっぱりいいなぁと思う。「ちょっと銀座いってくる」といって家の玄関を出る。いつものことで家内は行く先も聞かないし理由も聞かない。こっちだって別に銀座に用があるわけじゃない。寒いときゃコートの襟を立てて、暑いときはすっきりまかしこんで、表通りをしばらく歩いてスイッと東か西の横丁へおれていく。そんなとき銀座に遊ぶよろこびが背中のあたりをツンとすぎていく。いつまでたっても、銀座はやっぱり「いい仕事」をしているよ。