“銀座のバー”といってもスタンド・バーではなく、マダムのいるクラブのことで、なぜかこれが“バー”と呼ばれていた。ママでなくマダムというところが、今日よりも大人びた空間であったことを証明しているのではなかろうか。
私が一番最初に足を踏み入れたのは昭和三十八年、中央公論社の編集者になりたての頃、 先輩に連れて行かれた「葡萄屋」という店だった。きりっとしたマダムと何人かの女性がいて、入口近くの小さなカウンターの内側にはバーテンダーが一人いた。ウクレレの得意な女性がいたり、アルバイトの若い娘がいたりしたが、奥の方に陣取った文壇の大御所の姿が私を緊張させた。最初のとき、すでに井上靖氏の姿を見たのではなかったか。まだ文壇の輪郭もくっきりしていて、老大家、大家、中堅、若手、新人といった序列が説得力をもつ時代だった。
次に同じ先輩に「スウリィ」というカウンターが主で、ボックス席がひとつある店へ連れて行かれ、ここではカウンター席の高松宮殿下を目撃した。美人のマダムは、その少しあとでテレビの司会をやって話題をまいた。そこでも私は、緊張を愉しんだ。文壇の大御所もさることながら、他社である出版社のお偉方や、経済界の重鎮などの顔もあり、本来、二十代の私などのいる場所でないことはあきらかだった。出版社の編集者という特権によって、私はカンニングするような気分でグラスを口にはこんでいたはずだ。女性と気のきいた話をするなど、雲上の沙汰という感覚だった。
さらに、同じ先輩や別な先輩に、「ラモール」「ゴードン」「エスポワール」「おそめ」「らどんな」「眉」などへ案内された。「ラモール」はシャレた店で、ピアノを弾く女性もいて、外人の接待場所でもあったようだった。カウンターの隅で、ワシントンへ国際電話をかけるM新聞社の外信部長、打合せ中の直木賞受賞直後の山口瞳氏と伊丹一三時代の伊丹十三氏の姿などが目に残っている。ここでも私は、背伸びをしてポーズをとり、やはり緊張を愉しんでいたはずだ。
「エスポワール」は、永井龍男、河盛好蔵、吉行淳之介氏らに混じって、企業の社長や関取などもいて、老舗の“文壇バー”らしい雰囲気に圧倒された。名物マダムは、どんな新人作家の作品をも読んでいるという評判で、さすがだなと感心したものだった。「ゴードン」での安部公房、栗田勇氏らの姿も、世間で見ないタイプとして興味深かった。「おそめ」での水上勉氏、「花ねずみ」のカウンターですれ違った川端康成氏、「らどんな」における秋山庄太郎氏などの独特の佇いも印象的だった。
そんな銀座の数々の店に出入りしていた私は、やがて会社を辞めて物書きとなった。そのときはすでに、“文壇”そのものの輪郭はあいまいになっており、マダムはママとなり、“文壇バー”も徐々に姿を消していった。私がいま懐かしく思い出すのは、あの銀座の“文壇バー”で味わった緊張という愉しみなのである。

村松友視(むらまつ ともみ)
1940年、東京生まれ。慶応大学卒業後、中央公論社の編集者を経て文筆活動に入る。
1982年に『時代屋の女房』で、第八十七回直木賞を受賞。1997年に『鎌倉のおばさん』で第二十五回泉鏡花賞を受賞。
主な著書に『私、プロレスの味方です』『アブサン物語』『黄昏のダンディズム』、近著に『雷蔵好み』がある。