「銀座」という言葉を聞くと、今でも私の心には、何故か暖かい豊かな感情が沸いてくる。終戦の翌年、やっとの思いで三十八度線を越え、日本に引き揚げてき私達家族は、親戚を頼って、大阪、千葉と転々とした後、やっと東京の両国近くにある都営アパートに住めることになった。空襲で焼けた小学校の教室を、いくつにも区切った、一家族8畳住の広さしかなかった。その上、我が家は、父と母、小学校五年になった私と五才の妹、三才の弟、祖父、祖母の七人が暮すという、今では考えられない狭さだったが、生きること、食べることに必死だったあの頃は、東京に住めるという喜びの方が大きかった。
 その頃の私には、二つの楽しみがあった。そのひとつは貸し本屋さんで本を借りること。新しい本など買えなかった私は、学校から帰ると、一目散に焼跡へと走った。土に埋っているビンのかけらなどを取り出して、ガラス屋さんに持って行くと、わずかなお金になった。そのお金を握りしめ貸本屋さんに行って「ああ無情」「ヘレンケラー」・・・などを貸りてむさぼるように読んだ。
 そしてもう一つの楽しみは、月に一度父の給料日に、銀座へ食事をしに連れて行ってもらうことだった。その日が来るのをわくわくする気持で待ったのを今でも覚えている。会社から帰った父の「さあ、今日は銀座へ行くぞ!」という言葉に「わあーい!」と歓声をあげ、精一杯のお洒落をして銀座へとくり出した。
 今でもあるんだろうか、松坂屋の裏手にあった中華料理店。何とおいしかったことか。その後、京橋から新橋へと続く銀座のめぬき通りの両脇に、まるでお祭りの縁日のように、ずらーっと並んだ屋台を見てまわるのも楽しかった。又子供達の誕生日は、父の仕事の都合がつくかぎり、銀座のレストランで、というのが、我が家の習慣だった。私の二十歳の誕生日も銀座のレストランで祝ってもらった。「今日から千登勢も大人の仲間入りだね」と言ってくれたその時の父の瞳が今でも脳裏に焼きついている。
 私が、仕事をするようになって数年後、昭和四十年から六十年代、番組やCFの撮影が終った後、クライアントの社長さん達に、よく銀座のクラブへ連れて行ってもらった。ほとんどアルコールは駄目な私だが、その場の雰囲気は好きで、男の人達はこういう所で一日の疲れをいやすのかなぁーと思った。お店のママや女性達も気立てが良く、すぐ仲良くなり、その後、家に遊びに来るようになったママ達も何人かいた。
 戦後物資的には貧しかったあの頃、銀座は私達に豊かな活力を与えてくれた。父も母も今はあの世へ行ってしまったが、銀座へ行く度、今でもあの頃のことがなつかしく思い出される。このところ「銀座には昔の活気が無くなった」という声をよく聞くが、銀座には是非、元気をとり戻してもらいたいものだ。



 
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